斉藤先生

小学六年生の時の忘れられない先生、それが斉藤先生だ。ある日、僕は黒板になにかを発表して「発」という字を書いた。斉藤先生は、理科の先生だったが、それを見て、「江口君、『発』の書き順が違うよ。」と言った。僕は、自宅の漢和辞典で「発」という漢字を引いた覚えがあったので、「漢和辞典通りに書いているから間違っているはずがない。先生がへんなんじゃない?」と言い返した。先生はにやにや笑って「じゃ、図書館からその漢和辞典を持っておいで。」と言った。理科の授業中にも関わらず、僕は図書館へ漢和辞典を借りに行った。

ご存知のように、「発」の上の冠は「左の長いたれ、次に左の点、右の上の小さい点、右のたれ、そして、右の下の点」という順に書く。僕はそれを右の点点を続けて書いて、右のたれという順に書いていた。あきらかに僕の間違いだったが、僕が見た漢和辞典は、右の上の点の後、右のたれと右のもうひとつの点を同時に書いてあったので勘違いしていたのだ。

僕は、自分が見た漢和辞典を斉藤先生に見せ、こういった。「この漢和辞典は小学生向けで誰が見ても間違えないように作っているはずだ。漢和辞典が右の上の点の後、右のたれと右の下の点を同時に書いたのはその順番は間違えようがないからだ。つまり、漢字では、サンズイであろうがなんであろうが、点点を別々に書くという動作はなく、漢和辞典がその二つの書き順(右のたれと右の下の点)を一緒に書いたのは、右の上の点の後はその下の点であることが誤解のない動作だからだ。だから説明がはしょられているはずだ。」と抗弁した。

小学六年生としては、珠玉の「屁理屈」である。皆さんが斉藤先生の立場ならなんと答えるだろう?

「この辞書はわかりにくいが、間違いであることに変わりはない!」
「屁理屈言っても間違いは間違い!」
「うるさい。もういいから席につけ!」

というような答えは斉藤先生はしなかった。彼はこう言った。

「君のことだから、図書館でその辞書を見たとき、その辞書は君が正しいということを完全には伝えていないことに気がついたろう。そして、君は完全に自分が正しいということを確認するために、他の辞書も見たはずだ。そして、自分が正しくないということを理解したはずだ。その上で、君は自己弁護するために、さっきのような理屈を言ったわけだ。違うかい?ということは、君と僕とでは何も事実の認識に違いはないわけだ。なら、辞書を図書館にしまって、授業を続けようじゃないか?」

僕は2〜3秒沈黙し、辞書を返して席についた。斉藤先生の言葉は正しかった。僕は持論が正しいことを確認するために、図書館にあったすべての漢和辞典をチェックしていた。しかし、二人の間ではその時点では斉藤先生の言葉は「推測」でしかない。「そんなことはない。」と僕が言い張ればひっくり返すことができる。しかし、事実は変わらない。僕は沈黙の間にそのことを理解し、無意味な議論を終わらせた。
小学六年生、されど、人間。人格の萌芽の時期であり、認めてもらえなければ反発を感じる時期である。もし、斉藤先生が、頭ごなしに否定をしていたら、僕はきっと反発を感じていただろう。彼は僕の能力を認めた上で、正しいコンセンサスを二人の間に作り出した。

ロジックは、「気持ち」がなければ言い訳にしかならない。子供に論理性を教える時に、「気持ち」を先に作らなければ、やらない言い訳がうまくなるに過ぎない。ロジカルシンキングは「気持ち」(志)があって初めて生きてくる。そして、研修や教育は、「やる気」があって初めてモノになる。

この次の学期以降、僕は斉藤先生の理科のテストは全部100点を取った。そして、「発」の書き順を忘れたことはない。

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