JR西日本

事故車両に乗っていた二人の運転手が救助活動をせずに、職務復帰したといって非難され、事故当日、ボーリング大会や飲み会が催されたといっては槍玉にあげられる。このところ、さえないJR西日本であるが、これらの非難は本当に職務復帰や飲み会の開催によってバッシングされているのであろうか?


たとえば、トヨタの工場が名古屋でガス爆発を起こし、トヨタの工場の周辺の住宅を吹き飛ばしたからといって、北海道のトヨタの工場の送別会が中止になるだろうか?米国トヨタの日本人の異動歓迎会が中止になるだろうか?名古屋の工場を間一髪出発したカーキャリアーの運転手が、消防車や警察・自衛隊までいる中で戻って、バケツで消化活動するだろうか?


大企業は多かれ少なかれ、セクショナリズムがあり、部署が違えば責任の感じ方も極端に違う。そして、JR西日本はまぎれもなく大企業であり、従業員も多く部署も多い。しかも労働集約型産業で、人がいなかれば全然回転していかない産業で、事故にあった運転手の上司も余分な運転手を抱えておらず、まずは、その日のローテーションをつつがなく終わらせることを考えていたに違いない。救急隊員が駆けつけている中で、事故にあった運転手に何の手伝いができようか?一方で職務復帰すれば数万人の足を救うことができる。ボーリング大会をやった所属長だって、従業員が気持ちよく仕事ができるようにイベントをやらせたに違いない。そもそもJRの責任かどうかなんかすぐにはわからない。脱線事故のほとんどは他責事故で、JRが責任を感じなければならないことのほうがここ数十年圧倒的に少ないのだ。事故を起こした会社の従業員だって生活もあれば息抜きも必要だ。まして、ほとんど自責ではないと考えており、情報もなければなおのこと気になんかしないだろう。事故があろうがJRの屋台骨が揺らぐわけでもない。JRの飲み会を非難するマスコミだって、救援を活動を手伝ったものはいないし、運び出そうとする救急隊員のタンカを邪魔するようにして写真を取っている。


では、なぜこんなに非難を浴びるのであろうか?たしかに死傷者の多い未曾有の事故であることは確かだし、公表の有無に関わらず、死傷者に対し礼を失していることは事実だが、さっきのトヨタの工場の仮の例で何人が非難をするだろうか?こうは考えられないだろうか?


日々、鉄道事業関係者のサービスの悪さには、ほとんどの人がうんざりしているに違いない。そこへ、事故が起こり、一見不適切と思われている事象が次々起こる。ここぞとばかりに、みんなが日ごろの憂さを晴らしにかかる。普段優良なサービスを受けていれば、多少のことには目をつむることが多いが、普段から最悪なサービスを受けている人々は、ちょっとのことでも激しく怒る。いわんや、大事故をや。


鉄道事業は、ロケーションビジネスの典型である。サービスが悪かろうが、事故を起こそうが、自分の家から職場までの足がJRしかなければみんなJRを使うのである。きっと、事故で動いていない路線を除けばJR西日本の売り上げはそんなに下がらないだろう。サービスの良し悪しや、礼儀作法の良し悪し、CSの良し悪しなど業績にほとんど関係ない。JRが嫌だからといって引っ越す人は短期的にはまれなのである。そして、こういう構造を関係者は理解しているからこそ、事故を一大事と考えていないのである。


今回、批判を受けたからといって、JRは単に「脱線事故のときに飲み会を行ってはならない」という現象を抑える表面的な解決を考えてはいけない。ここで問題にされるべきは、日ごろからの社会への接し方なのである。そして普段の接し方が変われば企業体質も変わるはずなのである。なぜなら、「普段の接し方」という行為が変わるのは、頭の中の価値軸が変化することを意味しているからである。そして、JRの収益構造はたとえ短期的には変わりにくくとも、気をつけなければ長期的には変わる可能性は大なのである。


蓋し、転居の際にJRの路線を避ける風潮は起こりうるのである。